釈迦弥陀は慈悲の父母

釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり

浄土に往生する為には、二河白道を進まなければならない。私たちは分別心によって、世界を善人悪人に分けて、自分は善人という所に立って悪人を見下している。だから、現実と向き合うと、悪人に対して向けていた感情が跳ね返り、それが自分の唯識だということに気づかず、他人が悪いのだと思って責めてしまう。例えば、都合の悪い人を切るという人は、自分が何かのことで自分を軽く扱われた時に、相手にとって自分が都合の悪い存在になったとしか思えない。だから、本当は相手は心を開いて、気を遣わなくてもいいと思っただけなのかも知れないが、それを嫌いなったから、自分に対して軽く扱ってきているとしか思えなくなる。この時、自分はこのように思っているけど、なぜこのような気持ちになるのだろうと自分の心と向き合うのが二河白道。

でも、ほとんどの人は、現実と向き合うことはせず、こんなことをした相手が悪いのだと思って相手を切って済まそうとする。この現実と向き合わなくては、真実は見えてこない。でも、私たちはそこから逃げ続けているもの。だからこそ、阿弥陀仏と善知識である釈迦は現実と向き合うように、様々な善巧方便をされる。それは阿弥陀仏が現実と向き合うご縁を与えて、それを支えるのが釈迦の務め。仏縁を守りつつ、現実と向き合わせる。それは大変なこと。でも、現実と向き合わなくては、求道は進まないと思うからこそ、相手の心に受け取れるように教えを説いてゆく。この善巧方便というのは、善知識だから上手くいくのではない。何回も失敗し、その度毎に反省し、まず仏法を説くものが現実と向き合わなくてはならない。その失敗から学ぶことを通して、相手に合わせて教えが説けるようになる。現実と向き合えるような教えを説いてゆくことができる。どれだけ現実と向き合うことができるか。それは善知識がどれだけ現実と向き合うことができるかにかかっている。善知識が二河白道を進むからこそ、聞いている人も二河白道を進む。仏法とは、現実と向き合う教えであり、現実と向き合うからこそ、無上の信心も起きるのです。

煩悩具足と信知して

煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ

浄土に往生する為には、現実と向き合い、二河白道を進んでゆかなければならない。私たちは他人から自分にとって都合の悪いことを言われた時に、相手から人格を否定されたように感じる。しかし、自分がこのように感じるのは、唯識であり、自分が他人のことを否定しているから、人から都合の悪いことを言われただけで、自分が否定されたように感じる。現実と向き合うとは、他人から否定されたように感じた時に、否定してきた相手を責めたり、取るに足らない人だと見下すのではなく、正面になって否定された現実を受け止めること。そして、私が否定されたように感じるのは、自分が他人のことを否定しているからなんだと受け止めること。このように現実を受け止めようとしても、それでも否定してきた相手を責める心が起きてくる。それは煩悩具足だから。だから、自分は情けないなと思って、自分はできる所に立って他人を見下していたけど、こんな自分だと思うと見下せる相手なんていないなあと受け止める。これは本願力でなければ分からないこと。そうやって煩悩によって他人を責める心が起きても、他人が悪いのだと思うことなく、自分の心を反省してゆく。そうやって現実と向き合うから、二河白道を進むことができて、浄土に往生することができて、煩悩を離れ、法性常楽の悟りを開くことができるのです。

願力成就の報土には

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり

阿弥陀仏の本願力によって生み出された浄土には、自分は善人だという自力の心で修行しているものは行くことはできない。それは、阿弥陀仏の浄土に往生したならば、自分の心が照らされ、悪人の自分が見えるからだ。自力の人ほど、悪人を否定し、自分も否定されたくないから、善人という所に立つ。この善人という所に立った人は、自分のやることはすべて正しいと思っているから、まわりを見下し、自分の正義に合わない人をこの人のことを自分と同じ人間とは思ってない。その人が傷つこうが、何とも思わないような冷酷さを示す。この悪人に対して無慈悲な心は自分の心が浄土によって照らされた時に跳ね返り、激しく苦しむ。だから、自力のものは悪人を否定するから、阿弥陀仏の浄土には往生できない。しかし、自力の心は多かれ少なかれ、どんな人にも持っている。だから、大小聖人であっても、阿弥陀仏の本願によって救われた人から智慧を頂き、智慧を頂かなければ、阿弥陀仏の浄土に往生することはできないのです。

仏法力の不思議には

仏法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば 弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり

阿弥陀仏に救われたならば、阿弥陀仏のお力によって現実と向き合う信心を頂く。この現実と向き合う力こそ普通の人にはできないことであり、阿弥陀仏に救われた人は心で様々な障りが起きたとしても、信心がそれを乗り越えて、現実と向き合うことができる。阿弥陀仏に救われたから幸せになるのではない。どんなに都合の悪い現実であっても、その現実と向き合い、原因は自分の心にあると気づき、自分の種まきを変えてゆくことで、幸せになってゆくのです。もちろん現実と向き合うのは、阿弥陀仏に救われなくても向き合うことができる。しかし、それは善知識から直接教えを聞かなくてはならない。求道とは、ただ教えを聞いているだけでできるものではない。それは自分の都合の良いように聞くだけ。都合の悪い現実でも、そこから逃げずに向き合うには、力が必要。それにはまず現実から逃げずに向き合う人が必要。その最初の人が阿弥陀仏に救われた人。そして、その人から教えを直接聞くことで私達は現実と向き合い、求道をしてゆくことができる。現実と向き合うことは苦しいこと。だから、心の中からは、現実と向き合わなくてもいい理由が次から次へと浮かんでくる。この浮かんでくる自分にとって都合の良い理由を邪業と言います。この邪業に対して、自分自身がそれが正しいと信じてしまうと、自分の思い込みで現実を歪めて、間違った判断をしてゆくのです。そして、自分の都合の良いように現実を見るほど、迷いが深くなり、より苦しみの底へと堕ちてゆくのです。そういう意味で苦しみから抜け出せるかどうかは現実と向き合い、如何に自分の心を反省できるかどうかにかかっており、善知識から直接教えを聞かなくても
できるのは阿弥陀仏の救いしかないので、阿弥陀仏の本弘誓願を増上縁と言うのです。

経道滅尽ときいたり

経道滅尽ときいたり 如来出世の本意なる 弘願真宗あひぬれば 凡夫念じてさとるなり

末法一万年の後、お釈迦様の教えがこの世から消えてしまう経道滅尽の時が来る。その時になっても、お釈迦様の出世の本壊である阿弥陀仏の本願だけは、凡夫を救い続ける。

私たちは善人悪人にとらわれているから、いつも自分を善人に置いて、悪人を否定している。だから、自分が間違っていると聞くと、自分は間違っていない、自分は正しいのだと、まわりを否定する。そんなものが私たち。だから、お釈迦様は善を勧められ、本当の自分は悪人であり、どんな人も否定できないことを教えようとされた。しかし、お釈迦様の教えが廃れてくると、真面目に修行するものはいなくなり、それでいながら、自分は善人と自惚れているものばかり、自分は正しい所に立って、まわりを見下し、正しい智慧を持ったものでさえも、上から目線で教えを判断するようになる。そんなものが私たち。だから、阿弥陀仏はそんなものに温かく接してゆき、自分は正しくなくてもいいんだと思えるようになるまで、導いてゆかれる。末法のものだからこそ、正しい智慧を与えればいいのではなく、間違いを指摘するのではなく、長くつきあって少しずつ間違いを認めさせてゆく。だからこそ、阿弥陀仏のような心を持って接してゆくからこそ、この世で救われる人も現れてゆくのである。

善導大師証をこひ

善導大師証をこひ 定散二心をひるがえし 貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ

善導大師は阿弥陀仏に救われて浄土まで往生する道について、どのような道なのか、阿弥陀仏に対して証を乞い、二河白道の譬えを書かれた。

私たちは阿弥陀仏に救われたならば、何もしなくても死ねば極楽浄土に往生できると思っているが、二河白道の譬えでは、生きるとか死ぬとかは、肉体のことだけではなく、魂の臨終こそ大事なんだと説かれている。だからこそ、現実と向き合い続け、魂の臨終まで進んでゆかなければならない。それは聖道仏教の道であり、この聖道仏教の道を阿弥陀仏を信じて進んでゆくのが二河白道の譬えなのである。だから、善導大師は、定散二心を問題にし、臨終の救いを問題にしている人に対し、救いは臨終に決まるものではない。生きている今から煩悩がなくなり浄土へと往生できるのだと明らかにされたのが二河白道の譬えなのです。

こころはひとつにあらねども

こころはひとつにあらねども 雑行雑修これにたり 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり

雑行とは何か、雑修とは何か。それは自力の心でやる善が雑行であり、自力の心でやる念仏が雑修である。

では、自力の心とは、何か?それは仏教の教えがよく納得しておらず、頭だけでやらなければならないと自分の心を責めてやらせることである。例えば、善ならば、善をしたら幸せになれると思ってやるのではなく、仏教で善をしろと教えられているからやる。このような心で善をやると、本当はやりたくないから、善もせずに楽に流れている人を見ると、あの人は何をしているのかと責めずにはおれない。自分が善をすることに納得していないから、善に心が定まらない。それで理性だけでやらなければならないからやっている。私たちの多くは、悪をしている人を責める。そうすると、責められたくないから善をするようになる。善をするのは、責められたくないから。だから、善を本当にやりたいと思ってやってない。阿弥陀仏の救いを信じて善をしている人も、阿弥陀仏に救われて信心決定したら、もう善なんかしないと思っている。善をやりたいと思えない心。それが雑行。そんな人は、善をしたくないから、念仏唱えたら阿弥陀仏に救われると思って念仏する。これが雑修。共に、この世に自分の力で浄土を作ってゆこうと思ってないから、責められたくないから善をしているだけ。だから、雑行なのです。

仏号むねと修すれども

仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる

専ら念仏を唱えていたとしても、その念仏を唱えて、何かこの世で良いことがあるようにと思っている人は、これも雑修と名づけて、そんな人が千人いたとしても、一人も救われないと嫌われた。

念仏を唱えるのは、自分の心から吹き上がる悪い思いが見えるから、その悪い思いを止めたくても、どうにもならないから、この心を許したいと思って、唱えるものが念仏。でも、現世を祈る人は、自分の心に目を向けておらず、自分の心からどんな思いが起きているか気づいていない。そんな人は、念仏は最高の善だから、自分が善をするよりも念仏を唱えた方がいいと本気で善をしようと思っていない人。まるで念仏さえ唱えたら幸せになれると思っている人が現世を祈る人。これは仏教の教えが分かっていない人でもある。こんな人を念仏を唱えていても、教えが分かっていないから間違った念仏を唱えている人だと言われて嫌われたということがここに教えられています。

助正ならべて修するをば

助正ならべて修するをば すなわち雑修となづけたり 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし

五つの正行がある。それは教えを聞いて、その教えを理解しようとする行である読誦正行。その教えを深く理解し自分のものにしようとする観察正行。そして、真理を体得し心から、真理に対して頭を下げずにはおれない礼拝正行。そして、知らされた真理を他人に説明して言わずにおれない称名正行。そして、真理を教えてくれた人が生活できるように支え、その人から教えを学び、他人に伝えてゆくのが、讃嘆供養正行。この五つを実践するのが五正行。しかし、この五正行には、当然のことながら、教えを正しく伝えてくれる善知識が必要であり、善知識がいなければ、五正行を実践してゆくことはできない。この善知識がおられない時に、お釈迦様の残されたお経を読んで教えを理解しようとしても、私達は間違った理解しかできない。だから、阿弥陀仏が作られた南無阿弥陀仏を唱えようというのが、正業。これを善導大師が教えられた。だから、念仏を唱えて阿弥陀仏の救いを待てばいいのに、自分の力で教えを理解できると思っている人に対して、それは雑修だよと言われた。この人は阿弥陀仏の救いを一心に信ずる心のない人であり、仏恩報ずる心もない人である。

しかし、この問題点は教えを正しく伝えてくれる善知識がいないことにあり、善知識がいないからと言って、一心に南無阿弥陀仏を唱えたとしても、悟りを開くことはできない。私達が救われるには善知識はどうしても必要なものであり、善知識がいなければ、悟りを開くことはできないのである。

釈迦は要門ひらきつつ

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ

お釈迦様は要門の教えである十九願の教えを開き、善を勧められた。それはただ善をすればいいのではなく、心を一つに定めるように教えられた。

心を一つに定めるとはどういうことか?

善とは、私の心を清らかにする為にやるもの。しかし、どんなに心を清らかにしたいと思っても、いつも心を見つめられるようにしなければ、心からどんな思いが起きてくるか分からない。だから、心をいつも見つめられるように善を勧められた。私たちは心からどんな思いが起きてくるか分からない。だからこそ、いつも善に心がけなければならない。いつも善に心がけるからこそ、自分の心からどんな思いが出ているか知ることができるのです。

では、心がいつも見えるようになったらどうしたらいいのか?

それは雑行を捨てて、正行になることである。雑行とは、自力の心でやる善。自力とは、自分の心で悪が見えた時に、その悪をこんな悪を起こしてはならないと責めること。私たちはいつも善に心がけなければならないが、心はそれについてゆかない。このついてゆかない心を責めるのではなく、仏を念じてゆく。自分は心から善はできないけれど、心から善ができるのが仏様。その仏様を心で素晴らしいな尊いなと思いながら仏を念じてゆく。これが専修。このようにして念仏とはどういうものかを勧められているのである。

私たちは念仏さえ唱えたら他は何もしなくていいと思っている。しかし、念仏とは、いつも善に心がけている人が唱えるもの。善に心がけていても、心から善ができる訳ではない。自分の悪が見えた時に、その悪を責めることなく、仏様を念ずること。それが念仏であり、この念仏ができるように勧められたのがお釈迦様なのです。