相手の幸せを考えてゆけたらいいな

私に徹底的に欠けていること。

それは相手が喜んでくれる為に自ら動くこと。私はいつも一人になるように行動している。それでいながら、独りになると寂しい癖に、人と一緒にいながら、一人になろうとしている。

こうしたら、この人は喜んでくれるだろうなあと考えることがない。もちろん他人が尋ねてきたら、そのことについて考えることはするが、自ら進んで、相手の笑顔が見たいから、行動するということができていない。

そして、いつも声をかけられることを待っている。それでいながら、声をかけられると、早く終わって、次のことがしたいと思っている。

お金は使う為にある。どうせ使うならば、こうしたら相手は喜んでくれるかなと思って、お金を使ってゆきたい。

でも、私は相手に喜んでもらおうと思って生きてない。ただ時間を何かで埋めているだけのように感じる。

これではいけない。仏法とは、他人が幸せになる為の教え。仏法を伝える私もいつも他人の幸せを考えて生きてゆきたい。

どうしたら自分のまわりの人が幸せになれるか?どうしたら自分と接した人が喜んでくれるか?

それだけを考えて生きてゆけたら幸せなのになと思わずにはおれません。

脱自分のことばかり考えることですね。

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孤独になるように生きている

僕の心を見てみると、相手からのお願いを自分の欲で切ってしまうことがよくあるなと感じます。

特に朝眠いときに子供に付き合うことができていないなと感じます。

子供が何かお願いしても、眠たいから一人でできるでしょと一人でやらせようとしてしまう。

その為に子供と一緒に過ごすという貴重な時間を無駄にしてしまっていると反省します。

子供が自分のことを必要としている時に自分から動かなければ、子供は自分のことを当てにしなくなる。

誰よりも孤独になりたくないと思っているのに、自分から孤独になるように動いている。

私は今までの人生一人でいることが多かった為か。人に合わせることができていないように感じます。

孤独にならない為には、他人が自分に声をかけてくれることを期待するのではなく、自分から相手に近づいてゆく。

相手のやっていることを一緒にやって、相手に合わせてゆく。また、みんなのいる所にいるようにする。

これが基本であり、基本に忠実に生きてゆく。自分を孤独にしないように、自ら動いてゆかなければなりませんね。

一人にならなければ分からないこと

私たちはこの人は私を見捨てないと安心すると、この人の存在が自分にとって軽くなって、自分の中であまり大事にできなくなる。

いつも会っているから、いつまでも会えると思って、安心して、その人の存在が軽くなってしまうと、いつでも会える、いつでも会えると思っている間に時間が瞬く間に流れてしまい、突然の別れが来る。

いつも思うことだが、人のいることの有り難さは、一人になった時にしか分からない。

だから、私にとって一人の時間は有り難い。一人になると自分を振り返ることができるから。

そして、自分にとってまわりの人たちがどれだけ大事な存在か感じさせてくれる。

でも、大事な存在なのに、いつも会えると思うと、相手の存在が軽くなってしまい、その人と一緒にいる時間を大切にできていない自分がいる。

どうしたら相手との時間を大事に出来るか。それが私のこれからの課題なのかなと思いました。

一人からされたことは、みんなに対して自分がやっていること

人間は誰しも我を持っている。

我とは、他人から見た自分。他人から自分がどのように扱われるかによって、私たちは自分の価値を判断している。

だから、他人から軽く扱われた時、私たちは相手から見たら、自分は軽く扱われる存在なんだということにショックを受ける。

この時、自分が軽く扱われたのは、自分が他人に対して軽く扱っていたからなんだと思う人はいない。

私たちは他人から嫌なことをされた時、嫌なことをした相手を問題にするが、相手からされることは、自分もやっているかも知れないと思って、自分の言動を反省する人はいない。

これが我。我とは自分に価値があれば、まわりの人は無条件で自分のことを大事にしてくれると思う心。

つまり、自分に価値があれば、自分は他人のことを軽く扱っても、他人は自分のことを重く扱ってくれると思っている。

でも、仏教は因果の道理。自分にやってくることは、すべて自分が他人に対してやっていることなんだということ。

だから、他人から冷たくされたならば、なんで私は冷たくされなければならないんだと思うのではなく、冷たくされるということは、気がつかなかったかも知れないが、自分もまわりの人に対して冷たくしていたんじゃないかと思って、まわりの人に対して優しくしてゆく。

私たちはやられたらやり返すと、冷たくされたら、冷たく返すことをしてしまうが、仏教では、やられたら、反対で返す、しかも、一人の人に冷たくされたら、まわりの人に温かいものを返してゆく。

因果の道理とは不思議なもので、自分がみんなに対して温かいものを返したら、必ずまわりから温かいものが返ってくるようになる。

そういう意味で、すべて自分の種まきなんだと思わずにはおれません。一人からされたことは、自分がまわりの人たちにやっている姿なんだと思って反省してゆきたいですね。

自分のものにする心から苦しみが生まれる

仏教では、苦しみとは、物や人に我をつけて自分のものにする所から起きると教えられる。

なぜ自分のものにしたら苦しみが起きるのか?

それは自分のものにしたものは、自由にできると思っているから。

自由にできるとはどういうことか?

自由にできるとは、価値のあるものでも、価値のないものとして見て軽く扱うことができる。

思い通りにならないものは責めて思い通りにすることができる。

自分が楽になるために、相手を動かすことができる。

これが自由にするということ。

でも、私たちは相手に対して思ったことは自分に跳ね返る。

馬鹿にしたら、馬鹿にされているように感じるし、責めたら責められているように感じる。そして、自分が楽をした分だけ、自分が動かないといけなくなった時に苦しくなって、不満しか起きて来なくなる。

私たちがこれは自分のものになったと思って、自由にできると、これらのことを思っただけで、私たちは軽く扱われているように感じて、何とか自分の価値をまわりに認めさせようと頑張るようになるし、責められないように生きるようになる。また、他人の為に動くと不満が起きるので、自分が認められるか、楽をする為にしか動けなくなる。

そして、このようになると、人生は思い通りにならないことがいっぱいで苦しむ。

あれもこれも障りになる。障りになったことがいつまでも忘れられず苦しみ続ける。

すべて自分のものにしたいという心から起きる。苦しみとは、自分のものにして安心する所から生まれるのですね。

お金があるからと言って幸せになれる訳ではない

私たちは一度自分のものにしたものは思い通りにできると思っている。

だから、お金があると、あれも欲しい、これも欲しいと夢は広がるし、ネットを見ては、欲しいものがあったら、手当たり次第に買おうとする。

でも、そうやって、欲しいから買ったものは多くの場合、使わない。だから、家の中には使わないものが溜まってゆく。

人間って不思議なもので、欲しいものがあると欲を出して買うのに、買ったものが使わないからと言って捨てることはしない。

だから、いつの間にか、家の中には使わないものが溜まってゆく。

そうやって、買ったものでも、使わないで放置しておくと、物を粗末にしているように、自分が粗末に扱われているように感じるようになる。

それは我のついたものは、自分の分身だから、我のついたものを粗末にすると、自分が粗末に扱われているような感じがして不縁になる。

だから、粗末に扱われたくないという思いが強くなって、まわりの人が自分のことを大事にしているかどうかが問題になる。

そして、まわりの人が自分がここにいるのに、キヲツカウことなく、好き勝手なことをしていると、自分の心が傷つき、腹が立って、相手の自由を力ずくで奪いたくなる。

例えば、仕事中に楽しく会話をしている人が許せなくなって、今は仕事中だから、真面目に仕事をしなさいと正義を振りかざして、相手を責める。

だから、何となくまわりの人から避けられて一人になる。一人になると、誰も自分のことを愛してくれる人はいないと思って寂しくなる。

その為、自分のことを愛してくれる人に出会うと、寂しさから、その人といつも一緒にいようとする。

でも、使わないものをたくさん持っている人ほど、寂しさが強くなり、相手に執着して、相手の行動を縛りなから、いつまでも安心することはできない。

自分は相手の行動を縛り、思い通りに振る舞いながら、相手が思い通りにならないと、怒りを起こし、相手を責める。

やがて、相手はこんな人とはつき合いきれないと思って離れてゆく。

そして、私は人から見捨てられる存在だと思いながら、寂しさを埋めるために物を増やし続ける。

お金は自分を幸せにしてくれると思っている人は多いが、お金があれば、欲しいだけで物を買うようになり、それは自分を不幸にするだけでなく、自分のまわりの人も不幸にしてゆく。

お金があるからといって、幸せになれる訳ではないのである。

穢れが溜まると

穢れが溜まると、愛欲が強くなる。
いつもまわりの人から自分のことが大事にされているかどうかが問題になって、自分がここに存在していながら、無視されると心が傷つく。
そして、いつまでも相手のやったことが忘れられなくなる。

だから、穢れが溜まると、まわりの人から自分がどう見られているかばかりが問題になって、他人から認められる為に動くようになる。

そして、このように動くと、他人に振り回されるようになるので、自分が無くなる。自分が無くなるとますます他人からどう見られるかばかりが気になって、他人から認められるように、認められるように動くようになる。

でも、たとえ他人から認められたとしても、心が穢れている人は、安心することはしない。もっともっと認めてもらおうと動き続け、心に不安をいだきながら、他人の顔色ばかり気にして生きてゆかなければならないのである。