臨終に己の悪が見えるのは

人は、死を目の前にすると、人生の中で悪いことをしたことが思い出されるという。でも、どうして悪いことが思い出されるのでしょうか?

私たちが悪い人間だから、悪いことを思い出されるのではないと思います。

私たちは生きている時は自分は正しいという我の上に立っています。だから、正しい所に立って、相手が傷つくことを何とも思わずに否定してきたことも何度もあったと思います。

この正しい所に立って相手を否定する心は、自分が正しい時は、否定する刃は相手に向いていて、自分を傷つけることはなかったのですが、死を目の前にして我が崩れると、正しい所に立ちたい一心で、自分の悪を見て攻撃を始める。つまり、自分が悪いことをしたから、悪いことが思い出されるのではなくて、正しい所に立ちたいから、自分の悪を見つけて攻撃するのです。

悪を攻撃している間は正しい自分でおれる。そんな無意識の思いから、自分の悪を否定し苦しむ。人は悪人だから、悪を攻撃するのではなく、善人に立ちたいから、悪を攻撃するのですね。

人はなぜ苦しむのだろうか

人はなぜ苦しむのだろうか?

自分の心を深く見つめている人は、自分が苦しむのは心で悪いことを思うからだと思っています。

確かに悪を思えば、その報いで自分は苦しみます。でも、それ以上に自分を苦しませるものは、悪いことを思った自分を責めることです。

私たちには悪いことはしてはいけない、正しいことをしなければならないという気持ちがあります。その心が自分を見たとき、自分の悪に対して容赦ない刃となって自分を責めるのです。

悪はもちろん良くないものですが、悪を思うのも人間。そんな自分に対して優しくなれたら、人は苦しまなくて済むのだと思いました。

見捨てる、見捨てられる世界

私たちは見捨てる、見捨てられる世界の中に生きています。思い通りにならない相手は見捨てる、悪人は見捨てる。このように人を簡単に見捨てるから、自分も見捨てられるのではないかという不安が起きます。

だから、価値のある所にしか立てなくなる。価値のある所に立っているからこそ、自分は簡単に見捨てるが、見捨てられるという不安を感じなくて済みます。

しかし、臨終になると、すべての価値を失う。だから、価値のある自分から、価値のない自分になってしまう。私たちはこんな現実を見たくないから、悪を責めて価値のある所に立とうします。それは他人でも自分でも関係なく悪を責める。

だから、死を目の前になると、自分の悪いところばかりが見え、自分を責めずにはおれないのです。

私たちは価値のない裸の自分をまともに見ることはできない。だから、自分を責めてでも価値のある所に立とうとするのです。これが未来の地獄を生み出す。

人はこの見捨てる、見捨てられるという世界から抜け出さない限り幸せにはなれません。

この不安がある限り、この不安を見ないように自分をも簡単に悪人にして責めてしまうのです。

人間にとって最も恐ろしいことは見捨てられること。この見捨てられるとは、誰かから見捨てられることではなくて、誰からも相手にされない見捨てられる存在になることが恐ろしい。

だから、私たちは悪人になると見捨てられると思うから、いつも善人という所に立つ。これが慢。

慢とは、自分が相手よりも上だから誇るのではなく、下でも、自分の方が上なんだと見ようとする。
そして、相手を見下す。

でも、そうせざるをえないのは、見捨てられるのが怖いから。

この見捨てられるのが怖いという不安を取り除かない限り、人はいつも上に立って相手を馬鹿にしてしまうのですね。

元気なうちに

私たちは我が身の死を真面目に考えることはありません。たとえ自分も死んでゆかなければならないのだなあと考えても、でも、まだまだ生きているからと死を先送りにしてしまいます。

じゃあ、生きて何をしているのかと言えば、私たちは時間があれば、食べることやお金のこと、好きな相手のことや誉められることばかり考えています。そして、やることがなくて暇だとじゃあ、寝るかと寝てしまう。

人生とは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲を満たすことで過ぎ去ってしまうのです。 

そうやって欲に流れると、一日あってもあっという間、一カ月あってもあっという間、一年あってもあっという間に過ぎてゆきます。

私たちは死ぬのは、まだまだ先だと安心していますが、そうやって安心している間に十年二十年という時間があっという間に過ぎて、死が目の前に迫ってしまうのです。

じゃあ、死の宣告を受けて余命幾ばくもないとなったら、真面目に死のことを考えるのかといったら、死が迫り、不安になればなるほど、私たちは不安を誤魔化す為に五欲を満たすことしか考えなくなります。  

あとわずかで死んでしまうのに、この人は何をやっているのだろうと思うことがありますが、人間とは、本当に死ぬまで、自分の死を先送りにし、考えることなく、死んでゆくのです。

だから、死は元気なときに考えなくてはなりません。自分が死ぬとはどういうことか?

それを真剣に考えて、死の準備をしなければならないのです。

心を問題にする

仏教は形よりも心を問題にする。たとえ形として人を殺したとしても、心で殺してやると思わずに殺してしまったならば、法律では罪になるけど、苦しみを生み出すような罪にはならない。

殺すつもりはなかったとしても、苦しむ人がいるのは、自分で人を殺してしまった悪い自分を責めるからです。

悪を責める人は、自分が悪をしてしまった時に自分を責める。すべては自分の心が自分の世界を生み出してゆく。この世で自分を苦しめるものは自分しかいない。だから、自分の心が変われば、この世から苦しみもなくなる。

私たちはじぶんのやった行いばかり見て、心を見ようとはしない。仏教だけが心を問題にして、心を変えてゆこうとする。

こんな金持ちになりたいという人から、こんな心の人になりたいと変わるのが仏法なのです。

愚痴

仏教を聞きわ頭では道理が分かっていても、今までの自分の人生が間違っていたと思えず、自分の考えは正しいのだと我を通すのが愚痴。

たとえば、自分の業によって、今という現実が生み出されているのに、それが都合の悪い結果だと、こんな結果を受けるような悪いことをしてきたとは思いたくないので、あいつが悪い、こいつが悪いと他人のせいにする。

どこどこまでも自分が正しいとしか思えない心。これが愚痴。

この愚痴がある為に私たちはなかなか反省ができず、同じ間違いを繰り返してしまうのです。

死んだらどうなるか分からない心

私たちは死んだらどうなるか分からない心を抱えています。これは、死んだらどんな世界が待っているか分からないのではなく、死んだら自分はどうなってしまうかが分からないのです。

私たちは我が自分だと思って生きています。自分が自分だと思っているものは我。しかし、臨終になると、この我は崩される。崩されると後は何が残るか。私たちは想像もつかないのです。これが死んだらどうなるか分からない心です。

分からないけど、私たちは我が崩れることを不安に思っています。それは私たちが元々不安を抱えているから。その不安を見たくないから、一瞬たりとも耐えられないから、我にすがっています。

死は見たくない見たくないと言いながら、無理矢理に崩される瞬間。それは死ぬ時だけが問題なのではなく、今というこの瞬間、不安を抱えているから問題なのです。

この不安を抱えている限り、何をしても心からの安心もなく、幸せを求めていながら、いつもスタートラインに戻ってしまうのです。

この不安を取り除き、心から安心することこそ、人生究極の目的なのです。

諸行と諸法

仏教では、現実世界を諸行と言われ、唯識の世界を諸法と言われます。

私たちは現実世界でお金や財産、地位、名誉を得たら幸せになれると思っていますが、諸行のものをどんなに得ても、諸法の世界が何か変わる訳ではありません。

だから、幸せになりたいと思って、これらのものを得ても、手に入れた時はこれが幸せだと思って喜んでも、時間と共に心は何も変わってないと知らされ、またスタートラインに逆戻りです。

だから、もっとお金を得たら、地位を得たら名誉を得たらと求め続けてゆくのです。しかし、何を得ても、これらすべては諸行のものであり、諸法は何も変わらないのです。

幸せになりたければ、諸法を変えなければならないと気づかないかぎり、苦しいのは、諸行が思い通りにならないからだと求め続けてしまうのです。

驕慢山

私たちはいつも他人と比べて自分の方が価値のある人間になりたいと思って生きています。これを仏教で驕慢山といい、人生とは驕慢山を高く高く登ることだと思って生きています。

しかし、一度驕慢山に登って優越感を味わったとしても、やがて降りてゆかなければなりません。その時、高く登って優越感を味わったほど、今の自分が惨めに思えて苦しまなければなりません。

幸せとは、苦しみを生み出すもの。これが驕慢山の宿命です。人はみな幸せを求めて生きていますが、驕慢山では、幸せを味わった人ほど、酷く苦しまなければならず、また、そこから降りていっているのに、まだ高いところにいるんだと現実を受け入れることができません。

仏教では幸せになりたければ、驕慢山ではなく、悟りの山に登らなければなりないと教えられます。驕慢山から悟りの山に求める道を変えること。それが幸せになる為に大切なことなのです。