我が自分だとかんかんに信じている

世の中の人たちは、自分のことを我だと思って、我を否定されないように生きている。

そして、我が傷つくようなことがあると烈火の如く怒り、相手を責める。

でも、一番見てあげなければならないものは我ではなく、感情。この感情こそ、私たちにとって一番大切なものなのだが、私たちは我こそ自分だと思っているから、感情が見えたときに、この感情を否定し我にしがみつく。

だから、思い通りにならないことがあって、我が崩れた時、感情が見えるから、その感情を否定し苦しむ。

我が崩れて苦しい人は、我が自分だと思っている人。私たちは意識はしてないけど、我が自分だと思っている。そして、我以外の自分が見えると、その存在を否定する。だから、私たちは思い通りにならない時に、我にしがみつき、怒りを起こして相手を責めてしまうのです。

我は自分ではない。それが分かれば、感情を否定せずに済むのに。

苦しみは自分が生み出しているのですね。

大事にするとはどういうことか

大事にするとは、どういうことか?

世の中では、私は子供の為に、これだけのお金を出したがら大事にしてきたんだという人がいるが、お金を出したかどうかが大事にするということではない。

大事にするとは、相手が私に対してここが変わって欲しいとお願いされた時に、それに対して、どれだけ誠意をもって変えてきたか。

たとえそれが自分にとって、難しいことであっても、難しいから、できないと断るのではなく、できなくてもやろうとすること。その変わろうとする努力が相手に大事にしているという気持ちが伝わる。

たとえどんなにお金を出してくれたとしても、こちらがここが嫌だから、やめて欲しいとお願いしても、変えようともしてくれなければ、やっぱりその人から大事にしてもらったとは感じない。

相手が大事だから、できないことも変えようと努力したり、下げられない頭も下げる。これが大事にするということなのです。

このまま過ぎると後悔する

人は必ず死ぬ。どんなに親しい人とも別れてゆかなけれぱならない。
今当たり前のように接している人も、必ず別れる時が来る。でも、多くの人は別れが待っていると思って生活していない。だから、親しい人との時間も、この時間を大切にしようと思って過ごすことはなく、当たり前のように流してしまう。

でも、ふと思うことですが、このまま当たり前のように毎日を過ごして、別れが来たら、きっと後悔するだろうなと思います。

当たり前と思う気持ちは恐ろしい。だって、そう思っているうちは、相手のことを見ていないから。そして、一緒にいても、自分のことを優先して、相手の為に時間を取ることなく、時だけが流れてゆく。そして、お互いの絆が深まることなく、何も始めからなかったように消えてゆく。考えてみたら、恐ろしいことだなと思います。

人との時間は、その人と一緒にいるときにしか経験できないもの。だから、その時は、今しかないと思って、この瞬間を大切にしてゆく。今を大切にしなければ、それをどれだけ積み重ねても空っぽの人生にしかならない。過ぎ去った時間は巻き戻せない。だからこそ、この時間にしがみつく思いで、今一緒にいる人との時間を大切にしたいなと思いました。

失敗しても温かく見てあげる

私たちはいつも正しい所に立ちたいから、悪いものを見つけると非難する。そして、その人が今までどんなに頑張って成果を出してきたとしても、一回の失敗で、その人に対する期待は幻滅に変わり、立場のある人なら、その地位を失って当然とさえ思う。

でも、他人に対して厳しく見ると、その刃は自分に対しても向く。お前はどうなんだとなる。だから、厳しい目が自分に向けられないように、自分はどうせダメなんだと諦めて生きるようになる。

その人にとって期待されることが怖い。なぜなら、どんなに期待されて頑張っても、一度失敗したら、みんな自分から離れてゆく。だったら、始めから期待されない方がいいと思ってしまう。

でも、自分の人生を諦めてしまったら、傷つくことはなくなるが、同時に幸せになることもできない。それよりはたとえ失敗することはあっても、いつも自分の人生に対してベストを尽くした方がいい。それにはまず失敗したら終わりという見方を改めてゆく。他人が失敗しても、その人を見捨てることはせず、最後まで温かい気持ちをかけてゆく。それは他人の為ではなく、自分の為。

自分が失敗した時、自分で自分を見捨てないように、最後まで自分を温かく支えてゆけるように、まず他人に対して見捨てないようにしてゆく。

他人に対する見方は自分に跳ね返る。失敗しても前を向いて生きてゆけるように、他人が失敗しても温かく見てあげたいですね。

欲を満たそうとするから、人生がつまらなくなる

欲に流れることは楽しい。でも、欲に流れれば、流れるほど、欲に流れることができない時間が苦しくなる。

そして、何も楽しいことはないのに、心は欲を満たせるものはないか探している。

このいつも欲を満たせるものを探しているのは、本当は寂しいから。でも、本心では寂しいのに、寂しさを欲でごまかしているから。寂しいことに気づかない。それで欲を満たせば満たすほど、本心では、寂しさが溜まっていくから。欲を満たしているほど、欲を満たせなくなった時に苦しくなる。

欲は何も生まない。でも、欲を満たしている時には、そのことに気づかない。でも、それは欲を満たすことができない時に、やってくる。自分は何の為に生きているのか分からない。楽しいことなんてない。人生がつまらない。

そんな虚しい心になる。でも、それは今という時間が虚しい訳ではなく、欲を満たしている時に、心が感じていたものが、後になって出てきただけ。

この虚しさに耐えて、欲を満たすことを止めれば、苦しみはなくなり、穏やかな心になる。

人生は楽しいことがないから、つまらないのではない。欲に流れて不毛な時間を過ごしているから、つまらないのである。

それが欲を満たしている時に気づけたら、どれだけ人生が満たされるのに。

気づかないというのは、恐ろしいですね。

変わってもらいたいからこそ働きかけ続ける

相手を本当に変えたいと思ったならば、相手に対して絶え間ない働きかけをしてゆかなければならない。

この働きかけによって、相手に対して心がかかる。心がかかるとは、相手のことをいつも心の中に留めて忘れないこと。その中で一番は子供。

ところが、私たちは時間があったら欲に流れることしかしていないから、大事な人がいても、頭の中は欲でいっぱいで相手のことを考えていない時間が多い。

それでいながら、相手の良くない所は気になり、気が付くと注意をして否定している。だけど、どんなに否定しても相手が変わることがない。

相手を変えたいと思ったら、まず自分が相手に対して心をかけ続けること。いつも相手のことを忘れないようにすること。その為に、働きかける。働きかけるとは、相手に関心を持つこと。

相手がいつもこの人は心をかけてくれているなあと感じてもらえるように働きかけてゆく。心をかけ続けてゆくからこそ、相手は心を開き、この人の為に頑張ろうと思うようになる。

まず心をかけ続ける。それができてこそ、相手も私のために変わろうとしてくれるのだと思いました。

分からなくてごめんね

相手が苦しみを訴えてきた時に、どう答えてあげたらいいか。

簡単にあなたの苦しみ分かるよと言っても、本当に相手の気持ちが分かっている訳ではないから、相手は自分の気持ちを軽く扱われたことに腹を立てる。

じゃあ、どう答えたらいいか?

余程、人生経験を積んだ人なら、相手の気持ちを分かってあげることができるが、そこまで経験を積んでいない人には、相手の気持ちを理解してあげることは難しい。そりゃあ、自分は相手と違うから、相手がどんなに苦しんでいたとしても、その苦しみは自分の苦しみではないから、分かってあげることは難しいし、分かるよと言うのも軽い。だからと言って、分からなくて当然だと突き放すことも冷たい。

だから、分かってあげたいけど、分かってあげることができなくて、本当にごめんねという気持ちを持たなければならないと思います。本当は分かってあげたい。でも、自分がまだ未熟だから!分かってあげることができない。だから、あなたに対して謝ることしかできない。現実を受け入れた上で、それでも相手を思う優しさが相手の苦しみを和らげるために大切なことなんだなと思いました。

失敗してもダメじゃない

生きていたら失敗することはいろいろある。でも、失敗したからダメではない。ダメだと思う心。それが成長を妨げる。

この世にダメな人間はいない。失敗したら、結果を受けて、そこからやり直したらいい。もちろん失敗する前に戻ることはできない。でも、失敗しても人生は続いてゆく。だから、生きている限り、前を向いて進んでゆかなければならない。

失敗してダメだと思って立ち止まるのは、できる人間に立っていたいから。そして、できる所に立って、できない人を見下していたいから。

でも、失敗して、自分のイメージ通りの自分ではないと知らされると、できる自分に立って、他人を見下していた分だけ、惨めな自分が見える。

でも、惨めなのは、自分の心が生み出したもの。もうできる所に立てなくなってしまったけど、それでいい。できない自分のまま、前を向いて生きてゆく。

ダメになっても、人生は続いてゆく。生きている限り、私たちは前を向いて進んでゆかなければならない。それが生きると言うこと。思い通りの人生ではなかったけど、それでも前を向いて生きてゆけたらいいですね。

差別はいけないという人が差別する

失敗した⼈に対して、なぜあなたがこの⽴場にいるのですかと疑問視して、その⼈をやめ
させようとする⼈が」いるが、そういう⼈を⾒ると悲しくなる。なぜなら、その⼈は今ま
でその⽴場でどれだけ苦労してきたか、どれだけ功績を挙げてきたかを考えることなく、
⼀回のミスでその⼈をその⽴場から追い出そうとする。これって悲しいことだなと思うの
です。
誰だって失敗することがある。それによって傷ついた⼈が現れるかも知れない。だから、
この⼈をやめさせて次の⼈にすればいいんだというのは、結局、傷ついた⼈がいるから、
あなたも傷つけと⾔っているようなもので、傷つく⼈が現れることを正当化しているだ
け。もちろん、この⼈の発⾔によって傷ついた⼈がいることはいけないことだが、だから
と⾔って、加害者であるその⼈を傷つけていいというのは、おかしい。
世の中では、被害者を守る為には、加害者をどれだけ責めてもいいという考え⽅がある
が、それこそ、よってたかって悪いものをいじめている差別以外の何者でもない。差別は
いけないといいながら、悪いやつは差別してもいいと思っている。
善⼈であっても、悪⼈であっても、傷つくものが現れることは悲しいと思いたいですね。

迷惑かけていい

私たちは親から迷惑をかけてはならない。迷惑をかけるのはダメだと教えられる。でも、迷惑をかけないように、かけないように気をつけてゆくと、やがて自分のことを迷惑をかけるようなダメな人間だと思うようになる。それは、迷惑かけないように気をつければ気をつけるほど、自分は迷惑な存在だから、気をつけなければならないと思うからであり、自分は迷惑な存在だという念ができるからである。

確かに迷惑をかけることは良くないことだ。でも、世界で親だけは、迷惑をかける子供を許してくれる存在でなければならないと思うのです。たから、迷惑をかけないように思っている人に言いたい。あなたは迷惑をかけてもいいんですよ。迷惑をかけてしまう、そんなあなたを許してくれる存在があなたの親なんです。

子供は親にいっぱい迷惑をかけて育ってゆく。そして、迷惑をかけた時に、それを仕方ないなあと許してもらうことによって、自分の存在を肯定的に見ることができるようになる。迷惑をかけないように、いつも気をつけるより、ありのままの自分でも許されるのだと思えるようになったら、心もずいぶん楽になるのに。頭で分かっていても難しいものです。