幸せは子供の時には気づかないもの

子供の時には気づかないことでも、自分が大人になって親になった時、子供の時に当たり前に受けてきたことが、実は幸せなことだったんだということが知らされます。

そして、自分が受けてきたように子供にもこの幸せを与えてあげたいと思います。

もちろん子供はこの幸せを幸せだと感じず、当たり前だと思っていることでしょう。

でも、それは自分も子供の時には気づかなかったことだから、自分の子供も気づかなくても当たり前。

でも、そうやって与えてきたものは、子供が大人になって親になった時に当たり前じゃなかったと気づくはずです。

そうやって親から子へ、子から孫へと幸せは受け継がれてゆく。

幸せとは、当たり前のように受け続けているものにある。だから、受けている時には、それが当たり前過ぎて、気づかないことが多い。

それでも、自分も受けてきたのだからと思って、次の世代にふんだんに与えてゆく。

今は気づかなくても、いつか気づく時がやってくる。そう信じて与えてゆくことが大切なことではないかと思いました。

時間を大切に使えるようになりたい

時間はたくさんあっても、それを有効に使うことは難しい。なぜなら、時間があると思うとついついダラダラと過ごしてしまうからです。

いつもダラダラと過ごしてしまった後、もっと大切に使えば良かったと後悔します。そして、時間を大切に使おうとしますが、やっぱり時間があると、時間はたくさんあると思って、つい無駄に過ごしてしまう。

本当は時間を区切って、今はこれをする時間と意識して過ごすことが大事なんだと思います。

まだまだあると思っている間になくなってしまうものが時間。

だからこそ、時間を大切に使うことができるようになりたいものです。

仏法を信じるとは

仏法を信じるとは、仏法を説いてくれる善知識を信じることではありません。

法を信じることを仏法を信じると言います。

世界を見たら、仏法を聞いてなくても、仏法は真理だから、仏法に従って生きている人はたくさんいます。

もちろんその人が言っていることのすべては仏法ではないかもしれません。

でも、その人の実践している真理に叶った部分を素晴らしいと思って敬い、自分も実践してゆく。それが仏法を信じるということなのです。

だから、見方によっては、この世にいる人すべてが先生とも言えます。仏法はどこでも学べるし、どんな人からも学べる。

でも、何が仏法で何が仏法でないかが分からないので、私たちは仏法の先生から教えを学ばなければならないのです。

世界に溢れている仏法を学ぶことができる人間になれたらいいですね。

仏法は聴聞に極まる

仏法で信とは、都合によって曲げない善悪をもって自分を省みることです。

私たちは欲目があるので、自分で自分を反省したら都合良く悪でも善に変えて見てしまいます。

だから、変わらない善悪を持つ為には、仏教の教えを聴聞して、そこで自分を反省することが大切です。

教えを聞いたり、語るから、私たちは自分の都合と関係なく正しいものさしで自分を反省できます。

だから、仏法は聴聞に極まると言われているのです。

一つを意識して生きる

人生あれもこれもと心がけてやってもできることではありません。

だから、これ一つ、この一年をかけて心がけるというものを持ったらいいと思います。私たちは成長しているようで、毎日何となく過ごしているものです。

だから、一年をかけてでも、これ一つ変わったと言えるものを持ったならば、それだけで、充実した一年となる。

もちろん一年を通して色々なものが身についたらいいけど、現実はあれもこれも不十分だったで終わってしまう。

だからこそ、あれもこれもと欲張らないで、自分にとって一番大切なこと一つに心がけて実践してゆく。

そして、いつも心がけて一年を通して、意識しなくても実践できるようにする。

多くのものを身につけなくてもいい。一つに心がけて、でも、意識しなくてもできるようにしたら、何年も過ぎたら大きな違いとなる。

一つを意識することが何よりも大切なことなのですね。

講師の仕事

仏教の講師として心がけること。それは相手に施しの喜びを知ってもらい、これからも施しを続けてゆくように教えてゆくことです。

その為には、施しをした人が施しをして良かったなあと思ってもらわなければなりません。

そういう意味で、講師とは与えることよりも受け取ることが仕事なんだと思います。

如何に施しをした人がまた施しをしたいと思ってもらうか。その為に感謝したり、受け取ったものを大事に使ったりすることが大事になってきます。

そして、講師というのは、施しをしてくれる人たちによって生かされているという自覚を持つことが大切だと思います。

そういう意味で講師が受け取るお金は、自分が稼いでいるのではない。稼いでいる訳ではないので、自由に何でも使っていい訳ではありません。

あくまでも与えた人が、この人に施して良かったと思ってもらうように大事に使わなければなりません。

そうやって大事に使うからこそ、講師は大事にすることを覚え、施した人はまた施したいという気持ちになり、施しの習慣が身につきます。

ほんの僅かな布施の心をキッカケとして、布施の習慣を身につけてもらうこと。それが講師の大事な仕事ではないかと思いました。

煩悩を取り除いたら寂しさが残る

人というのは、煩悩やら執着を取り除いたら、寂しさだけが残る。

人間というのは元来寂しさの塊。だから、寂しさを埋める為に、人を求めるのです。

しかし、私たちは人が自分から離れてしまうのが怖いから、人から大事にされたいと思います。

大事にされたいから価値を求め、価値のあるものを手に入れたら、価値のある人間になれると思って、価値のあるものを求め、他人と争ってまで手に入れようとします。

だから、幸せとは、みんな価値のある人間になることだと思っています。

しかし、どんな価値のある人間になったとしても、まわりの人が大事にしてくれる訳ではありません。

結局、寂しい心を抱えながら生きてゆかなければならないのです。

自分の寂しさに気づいたならば、自分が価値があるかないかなんてどうだっていい。ただ人のそばにいたいだけなんだと思って、自分から近づいてゆくようになります。

寂しい心を埋めるのは、価値じゃない。自分から人に近づいてゆくことなんですね。

ちゃんと使ったら欲は起きない

欲しい欲しいという欲の心は、買ったものを使わない所から起きる。

買ったものをちゃんと使ってあげなければならないと思うと、使う為には時間が必要となるので、自分にとってたくさんの物があっても使えないことが分かり、物が欲しいと思わなくなります。

私自身を振り返って、欲しい欲しいと欲が起きていた時は、買ったものを使うかどうかを考えずに、欲しいから買っていました。

しかし、ちゃんと使わないと思って、使い始めると、一つのものを使う為にも、それ相応の時間がかかり、使い終わってから、また買おうと思っているうちに、ほとんど買わなくなりました。

本当に使うものだけ買ったら、欲しいという欲は起きない。

まずは自分の買ったものをちゃんと使うということに心がけてゆきたいと思います。

穏やかな日常を送るために

人生生きていたら、同じことの繰り返しになります。毎日が同じものを見て、同じ景色を見て、同じ人と付き合ってゆきます。

だから、多くの人は新しいもの、新しいものに飛びついてゆきます。

でも、真実というのは、同じことの繰り返すことによって知らされてゆきます。

それは同じことを繰り返すと、自分の心に目を向けるようになるからです。

よく同じことの繰り返しはつまらないという人がいますが、それは元々、自分の心がつまらないという心を抱えていたのです。

そのつまらない心に目を向け、自分の心の超えたを聞いてゆけば、つまらない世界が穏やかな世界となる。

まるで楽しい音楽を聞いているように楽しく時間を過ごすことができるようになります。

大事なことは心に目を向けること。そして、心の声を聞くこと。心では、今何を感じているか、自分でどうして欲しいかを知ることが大事です。

いつも心を感じて生きることこそ、穏やかな日常を送る為に大切なことではないかなと思いました。

生死

私たちは我が自分だと思って生きています。我とは自分が自分だと思っている自分のイメージのことです。

私たちはこの我が崩れないように生きているし、我が崩れるような現実を目の前にすると、無常という現実が受け入れられず苦しむことになります。

しかし、この現実世界とは、我を崩すような無常がいつやって来るか分からない世界であり、私たちは我が崩れないことを前提として生きているので、人生とはとても苦しい所になります。

これを仏教では生死(しょうじ)と言い、苦しみの世界を表します。

この生死の世界で苦しみから離れる為には、無常の世界を無常の世界だと受け入れて、無常を前提として受け入れるしかありません。

それは我が身の死を受け入れることであり、人は必ず死んでゆくことを受け入れることでもあります。

この境地を生死即涅槃と言い、仏教でいう苦しみから離れた世界なのです。