自己愛を満たすには

自己愛を満たすためにはどうしたらいいのか?

仏教では上の心と下の心があると教えられます。上の心とは、理性のことであり、下の心とは感情のことです。

私たちは何が正しいか、何が間違っているか、常識にとらわれるので、たとえ感情が寂しいと感じていても、相手が迷惑だと感じることはやらないようにします。

しかし、それは感情からしてみたら、無視されたように感じ、無力感を感じます。この無力感から、私たちは自分の思いを他人に通すことで、自分は無力な存在ではないのだと思おうとするのです。

ここで、私たちが強引に相手に自分の思いを通すのは、それは無力感を消したいだけであり、どんなに思い通りになったとしても、自己愛は満たされません。

自己愛とは、自分の感情が寂しいと感じた時、その感情を無視しないようにすることです。

そして、自分の感情が寂しいと感じないように、たとえ相手にとって迷惑であったとしても、迷惑かもしれないけど、今自分の気持ちはこんな気持ちなんだということを相手に伝えて、寂しい気持ちを解消させることです。

私たちは善悪にとらわれている為に、他人に迷惑をかけてはならないと思うし、迷惑をかけた時には、自分が悪かったと思いたくないから、誰かを悪者にして、その相手を責めて、自分は正しい所に立とうとします。

この善悪を問題にする心が邪魔して、自分が迷惑かけたということを認められない。また、認められないから、相手にとって迷惑かも知れないけど、自分の感情を相手に伝えてゆくことができないのです。

自己愛を満たすためには、寂しい時は寂しいと相手に伝える。その時に、相手にとって迷惑かも知れないけど、自分には寂しいと思う感情があるから、その感情を大切にしたいから、頭を下げて、自分の感情を大事にしてゆくのです。

私たちは善悪にとらわれる余り、自分が悪者にされないように感情を我慢させますが、自己愛を満たすためには、たとえ相手から悪者と思われたとしても、感情を守ってゆくのです。

この感情が守られていると感じることで感情は心から安心することができます。

そうすることで、感情は自分の気持ちを伝えたら大事にされると感じるので、自己愛が満たされてゆくのです。

戒福とは何か?

戒福とは何か?

戒福というのは、仏教で教えられる戒を身に着けることによって、心を安定させること。
この戒とは何か?
このことについて仏教では次のように教えられています。
ある時、お釈迦様が説法された時、花を一輪だけ持って、その花をくるっと回しニコッと微笑まれて、説法を終えられた。

これは何を意味しているのだろうか。この花こそ、仏教で教えられる悟りの境地のことです。
つまり、悟りとは、花を一回りさせること。つまり、くるっと一回りして、元の場所に戻すこと。それが悟りの境地であり、戒を実践するものが目指すべき方向性なのです。

私たちの人生というのは、我の拡大。何かに我をつけて自分のものにして、安心して、また、次のものに我をつけて自分のものにする。だから、一度自分のものになったものは永遠に自分のものであるし、それが自分のものでなくなる時なんてないと思っている。

そうやって、様々なものに我をつけて自分のものにしているのが私たちの人生。

でも、真実から言うと、この世のすべてのものは本当の意味で自分のものになるものは一つもありません。一時自分のものになったとしても、いつか必ず自分の元から離れてゆかなければなりません。

その最たるものが死です。私たちは裸で生まれて裸で死んでゆく。いや、死んでゆくときには、この肉体さえも焼いてゆかなければなりません。
その間、私たちは金や財産、地位名誉、もの、家族など様々なものを手に入れて、これが私の人生だと思っていますが、これら一切のものと死んでゆく時には別れてゆかなければなりません。
私たちは自分の手に入れたものに我をつけて、これが私の生きた証しだと思って執着していますが、どんなに生きている間はこれがある、これがあると思って執着していても、死ぬ時には、すべてを失う。何も自分の生きた証しになってくれるものはないのです。

真実から言ったならば、すべてのものは一時自分の元にやってきて、やがて自分の元から去ってゆくもの。川の水が流れてゆくように、すべてのものは自分の元にやってきて、自分の元から去ってゆくのです。これが無常という真理なのです。
この無常という真理が知らされたならば、この世のどんなものも本当に自分のものになるものは何一つないことが知らされます。
だから、何かに我をつけて、これが自分と思うことはできないのです。
しかし、私たちはこの真理が分からず、必死になってこの世のものをかき集め、自分のものにして、これが私の人生だと思っているのです。
でも、どんなに多くのものを手に入れたとしても、すべては最後には失うものだとしたら、これが私の人生だと思って執着するほど、苦しまなければならないのです。
だから、みんな死んでゆく時には、必死になってかき集めたものすべてを置いて、執着だけは持って死んでゆかなけれならないのです。
執着とは、これが私と思って、かたく信じることです。それはたとえるならば、何かに完全にもたれかかっているようなものです。それが死んでゆく時には崩れる。そうしたら、深くもたれかかっている人ほど、支えるものを失い、思いっきり倒れてしまうのです。
この時の不安や苦しみはとても想像することはできません。家が津波に襲われて、茫然自失になる人がいますが、そんな苦しみの何十倍、何百倍の苦しみを死ぬ時に味わうのです。だから、私たちは生きている時に、すべてのものは最後無常によって失ってしまうという真実を知らなければならないのです。

この為に私たちは整理をしなければならないのです。
整理とは、自分の持ち物を使っているものと使っていないものに分けて、使っていないものを捨てることです。この使っていないものを捨てることによって、一度我をつけたものから、我を取ることを覚えるのです。私たちは一度我をつけたものは永遠に自分のものになる。壊れなければ自分から離れることはないと思っています。だから、今使わないものでも、いつか使うと思って欲しくなり買ってしまうのです。
そして、買っておけば、それは自分のものだと思って我をつけれるし、使わなければ壊れることもない。だから、自分が死ぬまで永遠に自分のものであり続けることができます。
これでは我をつけたものは、最後には自分から離れてゆくという真理を知ることはできないし、そうやって我をつけたものが自分から離れてゆくんだと分かるのは死ぬまで分かりません。

だからこそ、生きている時に無常を知る為にも、いつか使うと思っているものを捨ててゆかなければならないのです。
そして、使っているものを残す。これは使っているものだけにすれば、たとえば歯磨き粉ならば、使っている間になくなってゆき、無常が知らされる。使っているもの、たとえば消耗品ならば、定期的に無常が来る。同じものを使い続けることができません。だから、否応なしにいつか自分の元から離れてゆくという無常が知らされるのです。
また、無常を知らされる為に、今使っているものでも、定期的に買い換えてゆく。下着とか服とか、まだ着れるものでも、定期的に買い換えて、新しいものにしてゆくことが大切です。

このように自分の我をつけたものを定期的に捨てることによって、だんだんと買った時から、最後には捨ててゆかなければならないという無常が知らされてゆくのです。

では、無常が知らされたならば、次にどうしたらいいのか。
それは、その物の置き場を決めて、開けたら閉める、出したらしまう、使ったら片づけるということを繰り返すことです。

仏教では物を出すことを反位と言い、元に戻すことを定位と言います。

例えば、箸なら、閉まっている状態が定位。それを使うと反位になる。この反位の状態を洗って拭いて元に戻すことによって定位に戻る。

これは箸だけでない、すべての使っているものは、反位と定位を繰り返し、循環している。途中、歯磨き粉ならば、使い切るということがあるが、また、新しい歯磨き粉を買って、反位と定位を繰り返し続いてゆく。

これを通して私たちは無常によって今使っているものは無くなるということはあっても、いつも使っているものは形を変えて続いてゆくことが知らされる。この肉体も歯磨き粉と同じように終わりが来る。でも、終わりが来るからと言って私というものはそこで終わってしまう訳ではない。私というものは、新しい肉体になって続いてゆく。

このように定位と反位を繰り返すことによって、循環しているものは無くならない。形は変わっても続いてゆくということが知らされる。

私たちは無常が知らされる前は、めったに使わないものを大事にして、それにお金をかけていた。それは使わないものには無常が来ないから。いつまでも変わらずに続いてゆくと思うから。だから、いつか使うものを大事にして、自分もこの物と同じようにいつまでも続いてゆくものだと思って安心していた。

でも、無常が知らされると、この肉体にも限りがあると知らされる。どんなものもいつまでも続くものはないと知らされる。

じゃあ、何も続かないのかと言えば、使っているものは、形は変わるが続いてゆく。歯磨き粉も歯ブラシも定期的に買い替えながら、続いてゆく。
だから、いつも使っているものを大事にしようと思うようになる。なぜならそれが自分だから。そして、自分の持ち物をすべて使ってゆこうと思うようになる。使うというのは、定位と反位を繰り返し循環させること。私とは循環しているもの。循環しているものは続いてゆく。たとえ無常が来ても、それで終わりという訳ではなく、形を変えながら続いてゆく。

だから、物もいつも使っているものに心がかかるように、少し高い物を買って大事に使うようにする。これが戒。

無常が知らされる前は、定期的に物を買い替えなければならないかったので、安いものを買っていた。それが無常というが知らされて今使っている物に目を向けるようになると、安いものから少し高い物を買うようになる。

だから、戒というのは、何が知らされているかによって、方法が違ってくる。
始めは安いものを買うからいつまでも安いものを買えばいいという訳ではない。心の変化によって買うものを買えてゆく。
無常が知らされたならば、少し高いものを買う。
そして、その物を大事に扱う。綺麗に掃除をする。使ったら、掃除をして元に戻す。これを繰り返してゆくことが戒。

これによって自分というものがハッキリしてくる。どんな無常がやってきても変わらない自分を持つ。

これが戒なのです。

“仏教の教え498諸法無我(上田祥広30年08月12日)” を YouTube で見る

仏教の教えとは三法印。その一つが諸法無我。諸法無我とは、私が見ている世界にある物は心のスクリーンに映る映像であり、実際は存在してないと教えられる。この諸法無我の世界について良かったら聞いて下さい。

法話、我見について

”執着とは何か 仏教をちょっとでも学んでいる人なら、執着は悪いものだ。執着を少しでも減らしてゆかなければならない、と思うもの”(平成仏教塾より)

まず仏教とは何かというと、執着を減らす教え、執着から離れてゆく教えなんです。

”では、執着とは何か。例えば、自分が大事にしている家。その家に少しでも留まりたいと思いことは執着に入るのか。こういう気持ちさえも否定するのが仏教なのか。そういう疑問を持つ人もいると思います。”

自分の建てた家に留まりたいと思う心。この心も執着に入ると思いますか?

”では、執着とは何か。執着とは現実にはもう無くなってしまったもの。また、現実とは全く違ったものに対して、その現実を認められずとらわれる心が執着です。”

執着とはもう無くなったものに対して無くなったことが認められず留まり続けるのが執着。
たとえば彼女に振られた。そうすると、彼女に振られたという現実が認められずに彼女をいつまでもストーカーのように追いかけてゆくことが執着。

たとえば洪水で家が流された。家が流されたという現実が受け止められずに、あの時、洪水がなかったら、地震がなかったら家はあったのにと思うことが執着。

子供から嫌われた。あの時、子供にちゃんと子育てをしていれば、子供から嫌われることがなかったのにと思うことが執着。

”たとえば、彼女に振られてしまった人が、その現実を認められず、彼女を追い求めて、ストーカーになってしまうこと。また、整理をしなければならないと思って、洋服ダンスを見たとき、着ていないのに、高かったから捨てられないと言って、服を捨てられないのは、その服を残していても切ることがないという現実を認められないから。つまり、残しておけばいつか着るのではないかと思っているから、その服が捨てられない。これが執着。”

たとえば、この服を着て、友達と一緒に過ごしたんだよねという思い出の為にとっておこうというのは?

思い出の為にとっておくならば、定期的に見なければなりません。日頃は見ないのに、捨てようと思った時に、あ~これは捨てられないと思うのが執着。

じゃあ、着なくても見れば、いいの?

それは見る為に買ったものならいい。着るためじゃなくて。

じゃあ、元々は着る為に買った。でも、もう着ることはないけど、思い出があってなかなか捨てられない。捨てることもできない、着ることもできないから意識的に見て行こうというのはどう?

でも、服は着る為にあるものだから。

そのものの目的が果たせないのに、持っていようとするのが執着?

そうです。

着ないのも薄々分かっている。でも、捨てられないから時々出して見てあげようと思うのも執着に入る?

入ります。

だって、着ないでしょ。着ないのに持っているのも執着です。思い出にすがるのも執着です。

これは物だけでなく、昔のことにこだわるのも執着です。

だから、執着というのは、現実にはもう無くなってしまったもの。また、現実とは全く違うものに対して、その現実を認められずとらわれる心が執着。だから、現実がある。

今、現在の自分の現実があって、そこから外れているのだけど、そこに気持ちを置いたり、こだわったりするのが全部執着?

仏教では我見というのがある。我見というのは、自分の中に理想の自分がいる。たとえば過去の栄光みたいなもの。過去自分は可愛くてチヤホヤされていた。チヤホヤされていたという自分がいる。その時の自分はそういうものだと思うものが我見。

我見とは、自分とはそういうもので、そういうものが変わらないのだと思うものが我見という。

今現在は変わってしまっているのに、昔はそうだったから、今もそうなんだと思うこと。

自分のイメージにすがっている状態が我見なんです。たとえばアイドルだった人が自分がアイドルだった時の頃が忘れられずに、今は誰も見向きもされない。
昔だったら、USJに行ったらファンに取り囲まれて、ちょっとサインくださいとか、あの人何々じゃないのと言われて、持てはやされていた時代があったのに、三十年くらい経って、アイドルじゃなくなって、USJに行っても、誰も知らない。そうすると、自分はなんでこんな目に遭わなくてはならないのだろう。その今の現実を受け止められないのが執着なんです。

この場合、今の現実が見えてないの?分かってないの?分かっているけど受け止められないの?

私たちには我というものがあって、この我が一度できるとその我を固定して見ようとする習慣がある。私たちは生まれた時に、自分は何者かということが分からずに生まれてくる。

だから、他人から自分がどう扱われるかによって、自分というイメージを作り上げてゆく。そして、作り上げたら、そのイメージがもう変わらずに続いてゆくものだと思っている。

そこでポイントなのは、自分はどんな種まきをしたとしても、どんな生き方をしたとしても、自分のイメージは変わらないというのが我。

私たちは生まれたときは自分は何者か分からない。だから、他人からどう見られるかということで、自分のイメージを作り上げる。そして、この自分のイメージを作り上げるのを、仏教では我という。この我の見方を我見という。

例えば、自殺をする人は今が苦しいから自殺をする訳ではない。自殺をする人は自分のイメージが崩されてゆくのが嫌なのです。自分はもっと大切にされる存在なのに、酷く扱われるということが苦しい。
自分の中に自分という存在があって、その自分という存在の通りに他人に見てもらいたいと思う。

我見というのは自分のイメージ通りに他人から見てもらいたいと思う。こういう心がある。

だから、自分は偉い人間だというのがあると、その自分をないがしろにした人間は許さないという風に思う。私はこんなに偉い人間なのに、ないがしろにするなんて許せない。

その相手がないがしろにしたのは、ないがしろにするだけ理由があるかもしれない。でも、自分はないがしろにされるような人間ではない。自分はそういう人間ではないと思っているのが我見。

我見というのは、自分のイメージにすがっているという生き方。そのイメージの通りに生きているのが私たち。

そのイメージは人それぞれ違うのですね?自分のイメージというのは。
みんながみんな自分のイメージの通りに接してくれる訳ではないでしょ。
そうすると自分のイメージの通りに接してくれる人、くれない人がいたとしたら、自分のイメージの通りに接してくれる人には心地良く感じたりするってこと?

そうそう。

だから、仏教では自分のイメージ通りに、このイメージは悪いイメージは入らないから。自分のイメージ通りに接してくれる人には‥‥。

悪いイメージはないの?自分の中に?

自分の中で悪いイメージを持っている人ほど、自分の我見というのはより高いイメージになる。

例えば、他人からないがしろに育った人ほど我見のイメージは凄い高いイメージになる。

ないがしろに育った人ほど我見のイメージは高くなるというのはとういうこと?

我見というのは、自分の中にあるセルフイメージは凄い高い所に置く。

例えば、ある人が親からないがしろにされて、見てもらえず育った。そうすると、その人は見てもらいたいという気持ちが凄い強くなる。この見てもらいたいという気持ちが凄い強いので、見てもらう為には親から見てもらえるだけの才能のある人間でないといけないという所に立つようになる。
能力のある人間にならなければならないと思うようになる。

だから、そんな人間として見てもらえるように一生懸命努力する訳ではなく、表面を取り繕う。そして、取り繕って、自分はそういう素晴らしい人間なんだと見てもらおうとする。こういうのが我見。

じゃあ、親からないがしろにされた時に私ってないがしろにされる人間なんだなと思う訳ではないんだ。

そう。ないがしろにされる人間なんだなと思う訳ではない。
ないがしろにされる人間なんだなと思うと、自分は死にたくなってくる。生きる為には認めてもらえる存在じゃないといけない。だから、ないがしろにされた人間ほど、我見は高いイメージを持つ。

そして、そのように扱ってもらいたいと思うようになる。

例えば、ある人がこの人は嫌だと思って徹底的に攻撃してる。じゃあ、徹底的に攻撃できるような素晴らしい人間かというとそうではない。でも、自分の中では偉い人になっている。
なんで偉い人になってしまうのかというと、偉い人じゃないと認めてもらえないと思っているから。

だから、人間というのは認めてもらえて育った人は等身大の自分で認めてもらえると思うし、認めてもらえなかった人は今の自分では認めてもらえない。だから、自分の存在を遥か上の方に置かなければ認めてもらえないと思うようになる。

だから、自分は認めてもらいたいから、自分の存在を遥か上の方に置くようになるのです。

例えば、人と接した時にこの人はなんでこんな上から目線なんだろう。こういう風に思う人っているじゃないですか。なんで上から目線で人に接するのだろう。このような人がなんで上から目線なのかと言えば、この人の我見が高い所に置いているから。だから、自分はそういう人間なんだというところに立っている。

だから、高い人間だから、他人に対して批判できる。これはおかしい、あれはおかしいということで批判したら、分かってもらえる筈だと思う。

じゃあ、あなたは批判できるような素晴らしい人間ですか?という風に聞くと、批判できる素晴らしい人間だと思っている。思っているというのは心からじゃない。素晴らしい人間じゃないと苦しくなってくるから思っている。これが我見という。

じゃあ、実際に素晴らしい人間とか、努力してそういう所に立った訳じゃないんだけど、認めてもらう為に表面的に自分を素晴らしい所に人間だと、中身がないんだけど、そういう所に自分を位置づけるということ?

そうそう。

それが我見ということ?

そうです。それが我見です。

だから、我見というのは、自分のイメージ通りに他人から見てもらいたいという心なんです。

自分のイメージ通りに見てもらうと、嬉しい。これを仏教では楽受という。そして、その逆で自分のイメージ通りに見てもらえないと、苦しい。これを苦受という。
私たちは苦受に対しては瞋恚を起こし、楽受に対しては貪欲を起こす。

だから、こういう煩悩が起きてくる。
例えば、可愛いものを見て、可愛い、これ自分のものにしたいと思うのは、自分は可愛い存在だから、可愛いものが欲しいと思う。この可愛い存在というのが我見なんです。
だから、可愛いものを手に入れて自分のものにすることによって、より可愛くなるのではないかと思う。
だから、女性の人がいくつになってキティーちゃんが好きという人がいるのは、キティーちゃん可愛いと思うのは、自分は可愛い存在だと思っているからなのです。

我見というのは、自分の作り上げたイメージの通りに他人から見てもらいたいという心。
何でかというと、そういう人間になったら、他人は自分のことを認めてくれると思っているから。

例えば、自分がないがしろにされたと思って怒るのは、その人の中に我見があるから。そういう人間として見てもらいたいと思っているから。

本来なら、わんちゃんのように寂しいならば、自分のことを認めてくれよと思って、近づいてきて、膝の上にちょんと座ったならば、おー、よしよしってやってあげるのにと思うじゃないですか。
でも、我見というのは、いわゆるお犬様になってしまうこと。至れり尽くせりをして欲しい。そういう敬われる存在になったら、人は認めてくれるのではないかと思う心なのです。

だから、私たちは認めてもらえるように認めてもらえるようなものをかき集めたりする。

例えば、化粧品でも高いものが欲しいと思うのは、高いものを使った方が綺麗になると思うから。だから、お金のある人は内容じゃない。中身はどうかということよりも、高いものを使って綺麗になりたいと思う。この綺麗になりたいと思う心を我見という。綺麗になったら、他人は認めてくれるのではないかと思う心。この認めてくれるというのは、どんな種まきをしたとしても、変わらずに認めてくれるという思い。私がその人に対して無視をしたり、冷たくしたとしても、相手は自分に対して変わらずに近づいてきてくれる、親しくしてくれる。

例えば、男性ならば、ローレックスの腕時計が欲しいと思う。これを身につけているだけで、自分の存在を特別なものとして認めてくれるようになる。だから、私もSUITSというドラマを見てますけど、いいスーツを着ているだけで、こんないいスーツを着ているのですかと言って、人は見方を変えてくれる。
そうやって自分のことをよく見てもらいたいと思う人は高級品に手を出す。そうやって自分のイメージを作りあげてゆく。
高級なものを持てば、その無条件で自分は価値のある存在だと思える。高級品が似合う自分だと思いたい。だから、高級品を持ちたい訳ではなくて、高級品を持つのにふさわしい自分になりたいだけ。

それは自分の日頃の振る舞いとは関係なく、そういう高級品を持ったり身に着けたりしたら、自分のことを特別な存在として見てもらえる。そういう心があるということ?

そうそう。

見てもらえるのもそうだけど、それと同時に自分に対する扱いも変わるんだけど。

ちょっといい服を着ると、ああいい所の人だと思って接してくれる。

たとえば、ちょっとした料理屋さんなら、さらっとした服を着ていたら、どうぞお入り下さいなのに、高級な服を着ていたら、「いらっしゃいませ、どうぞ、お部屋をご用意しています。」と扱いが違う。

そうすると着ているものによって自分の見え方が変わるから、やっぱりいいものを着なくちゃと思う。

そのお店の人は身に着けているものに頭を下げている。自分じゃない。身に着けているものにははーと頭を下げている。それが嬉しいというのが我見なのです。
自分の着ているものに対して頭を下げているのに、まるで自分に対して頭を下げてもらっているように感じるのが我見なのです。

やっぱりちょっと違和感がある。そうされると。

それはどこかで分かっている。相手は中身を見て、私を判断している訳じゃないんだなと。
自分のことを何も見てもらっている訳じゃないんだと分かると寂しくなる。
我見の世界というのは、自分の着ているもの、身に着けているもの、また、自分の肩書きによって自分の扱いが変わる。だから、みんな大切に扱ってもらいたいから、そういう見せかけのものを良くして何とかして自分をよく見てもらおうとする。それで、一度自分をよく見てもらうと、そういうものが自分なんだと我が固定されて、これからもずっと自分をよく見てもらう為に、定期的に服をいいものに変えてゆかなければならない。

それは大変なこと。だから、ある時から、一点豪華主義に変えたんです。

一つだけ豪華なものを持つことによって、この人はこんなすごいものを持っているから、全部をコーディネイトするとすごいお金がかかるから。一点だけなら、その一点にお金をかければ、たとえば毛皮のコートにだけお金をかければ、中身を普通の服でも、毛皮のコートだけを見て、うわあ、この人はお金持ちなんだ。へへーとなってくれる。そうするとお金をあまりかけずに自分のことを敬ってくれるようになる。

でも、中身をトータル的に高いものを着ないと落ち着かないですよ。外だけ豪華にしていても。

それを我見。人は見てくれによって人を判断する。そうすると一度できてしまったイメージ、自分のことを凄い存在として敬ってくれるようになると、凄い心地いい。このイメージの通りこれからも見てもらいたいと思うようになる。だから、中身を見せている家族に対しては優しくなれない。

あえてイメージの通り見てもらう必要がないものね。頑張って自分が。

自分がどんなにいい服を着たとしても、「お母さん素晴らしいですね。私勉強頑張ります。お母さんに相応しい存在になるように」という風にはならない。だから、我見を問題にするほど、家族に対する関心が下がってゆく。そして、たまに行く外の人に対してよく見てもらえるような服をそろえていくようになる。これが貪欲。

だから、貪欲というのは物に対して執着しているのではなくて、そういうよく見てもらえる自分というものに執着している。そういうイメージができればできるほど、そう見てくれない相手に対して腹が立つ。私はあの料亭では立派な人として扱ってもらえるのに、なんだこの家庭はというように。私のことをこんなないがしろにして、その綺麗なイメージに対して執着すればするほど、そのように見てくれない現実に対して苦痛を感じるようになる。だから、腹を立てて相手を責めるようになる。

でも、そんなに苦痛ではなかったですけどね。私割り切っていたもの。みんなと一緒に行くからかっこつけていただけだと。

何が苦しいの?

何が苦しいのかと言えば、自分のことをちゃんと見てくれない相手に対して腹が立つ。ここで割り切っていたというのは、家庭の中の時間というのはカウントに入ってない。すでに。ちゃんと見てくれないといけない場所で見てくれないと腹が立つのであって、自分が問題にしている所だけが、時間が流れているのです。

もし、仲間の所に行ったときに、そのように扱ってもらっていなかったら、腹が立つということ。

そうそう。自分は豪華な服を着ているのに、どうしてそのように扱ってくれないのというように。
それが家庭の中でも問題にしているなら、腹が立ちます。ここで割り切っていたというのは、家庭は自分の我見の世界に入ってない。つまり、家庭の中では自分は生きてないということなのです。家の中の時間は自分は存在しているけど、存在していない時間になっている。
外に出ている時よく見てもらおうとする。そうやってよく見てもらうと外に出ている時の自分に執着する。執着というのは、外に出ている自分にとらわれる。とらわれるというのは、これからもそういう自分として固定して見てもらおうとするということ。

俺はこうなんだ。それが自分なんだというように。

そうそう。これが自分なんだと。言い換えるとそれ以外の自分は自分じゃないんだと。

じゃあ、家庭の中にいる時は自分じゃないんだ。

そう。

確かにそういう時期がありましたね。

だから、自分じゃないから、だから、どんなにまわりの人からえーと見られたとしてもいいのです。
我見が崩されない。我見は自分が問題にしている所の自分だから。だから、よくあるじゃない、芸能人がテレビに映っている時だけは可愛くしているけど、日頃は全然だらしない生活をしている。でもね、自分の中では、私はちゃんとすればちゃんと見てくれる存在なのよという自分がある。

だから、プライベートでだらしないことを言われても、そっちは本当の自分ではないと思えているから、気にもならないし、問題にもならないのですね。だから、もし家庭の中が問題になっていたとしたら、家庭の中の家族からそのように見てもらえなかったとしたら、家族に対して腹が立つのですか?

家庭の中が問題になっているというのはね。たとえば、私が京大卒となると自分の子供も当然、京大か東大卒ですよね。と思う。そうなると家庭が問題になる。私をよく見てもらう為に私の家庭もよく見てもらわなければならない。そうすると家庭が問題になる。たとえば、私の息子なのに全然勉強ができない。どういうことなんだと思う。
この場合、子供に対して期待している訳ではない。自分の子供だから、私を見てもらうように、私を正しく見てもらう判断材料としてこの子がいる。そうすると、その子が思い通りに育っていないと腹が立ってくる訳。なんで腹が立つのかといえば、その子が可愛そうだからではない。その子が悪い道に入るからじゃなくて、私のことが悪く見られるじゃないか。これが問題になるのが我見なのです。

じゃあ、その方にとっては、その子供が何か悪いことをしたら、自分のイメージが崩れるから腹を立てるのですか?

そうそう。

だから、その人にとっては自分もよい大学を出ている。旦那もそうだ。そうしたら、当然息子もよい大学を出なければならない。そういうものが全部自分となっている。だから、それが崩れると崩した相手に対して腹が立つ?

そうそう。

だから、自分のイメージを守る為に自分が存在している。頑張っている。それが執着というのです。
そのイメージに固執してそこから離れられないというのが執着というのです。

この執着が強いと現実の自分が認められなくなる。たとえば自分は立派な人間だと思っている人だとすると、自分は立派な人間だから、自分の子育ても立派な子育てをしているという所に立つ。だから、立派な子育てをしているから、自分の子供も立派じゃないといけないと思ってしまう。ところが、その子がちょっと非行に走った。また、非行に走らないまでも勉強ができないとなったら、私の子供なのに、勉強ができない。それはいろんな子がいる訳で、自分が頭がいいからと言って、自分の子供までも頭がいいということにはならない訳で。だけど、その現実を認められない。では、現実を認められない時にはどうするのかと言えば、現実を否定する。たとえば、その子供を徹底的に責める。責めることによって、責めたら思い通りになると思っている。これが我なのです。我というのは、自分の我に合わない所を否定すれば、その部分だけ無くなると思っている。

どうやっても、そのイメージを崩さない方向に行きたいんだね。

そう。だって、その為に生きてきたんだもの。自分の人生というのは我の為に生きてきた。今更その我を崩すことなんてできないんじゃないですか。その為に自分の人生の大半を費やしてきた。

我というのは、自分の嫌な所を言えば、責めれば相手は直してくれると思う心。

こんなに嫌だから直してくれると思うということは、自分の思い通りにならないことを否定すれば、それが無くなるということから来ている。

たとえば、ある人が、この人のこんな言動が嫌だから直して下さいと言う。直して下さいという時に、いつも直して下さいということを相手を否定しながら言っていた。たとえば相手に分からせる為に僕はあえて挨拶もしません。声もかけません。相手が挨拶してきても無視する。そしたら、相手は心我に残るでしょ。
否定すれば、相手が自分が間違っていたことに気づいて直してくれると思っている。

そう思うのは我を崩さない為に。

そう。自分の我を崩さない為に、自分の我なんです。自分の我を崩さない為にやっている。

我といのは自分が生まれた時には自分は何者か分からない。この自分は何者か分からない所に立っているのに、自分は何者かを知る前に我を作ってしまう。それが自分だと思い込んで、なんとかその自分だと思っている我を崩さないように崩さないようにするようになる。それが現実と食い違うと現実を見たくないと思ってすべての現実を否定するようになる。

不安になっちゃう?

不安になることもない。不安に過ぎて。不安過ぎると不安になることもない、怒りしか起きて来ない。なんで俺のことをこんな風に扱うんだ、ということで腹が立つ。これが我見というもの。

この我見が少ない人というのは、自分の種まきで自分の世界が作られると思っている人。たとえば人が優しくしてくれなかった。なんで優しくしてくれないんだと思うのが我見の問題にしている人。優しくしてくれなかったことに対して私が優しくしてくれないものを持っているのかなと思って人に優しくしてあげようと思うのが、仏教を信じている人。

なんでこうなんだではなくて、そうように接してもらいたいならば、そのように接してもらえるように種まきをしてゆこうと思える人は我見ではなく、自分を持っている人?

そうです。

我見というのは、嫌なことがあった時に自分の持っているイメージが崩されることばかりが問題になって、目の前の問題がなぜ起きたのか。どうしたらその問題が起きないようにできるかを考えることができず、ただ目の前の相手を否定してしまう。そして、否定すれば、相手は間違いを認めて、間違いを改めて自分の思い通りになると思っている。だから、我見の人は思い通りにならない時には、思い通りにならない相手をただ否定することしかしない。でも、我見を離れて仏教を信じている人は、思い通りにならない現実に対してちゃんと向き合って、自分の思い通りにしたいならば、そうなるように働きかけてゆく・
我見を問題にしている人は、思い通りにならない現実が嫌じゃなくて、その思い通りになrない現実によって、自分の我を否定されることがどうしても認められない。でも、仏教を信じている人は我見はやがて崩れてしまうものだと知っているから、我見にとらわれることはせず、目の前の現実を少しでも自分の思い通りになるように、気持ちよく暮らしてゆくように働きかけてゆく。
だから、仏教を信じている人には、現実に対する不平不満はない。それは嫌なことがあったら、そうならないように自分から働きかけてゆくから。
これが我見の人と仏教を信じている人との違いなのです。

少欲知足

仏教に少欲知足という言葉がある。これはどういう意味か?

文字の意味から言えば、欲少なく足ることを知るということ。
私たちは何が幸せかと言えば、何かを手に入れて自分のものにすることが幸せだと思っている。

欲を起こせば、あれも欲しい、これも欲しい、欲しいものが一杯。その為に金が欲しいし、財産も欲しい。いい車に乗りたいし、いい所に住みたいし、贅沢な暮らしもしたい。

でも、その欲を少なくすることが少欲だとしたら、少欲とは私たちにとって、どんな意味があるのか?

欲しいものがあっても買わないことがいいことなのか?

貧乏な暮らしに満足することが少欲知足なのか?

もちろん、仏教とは、私たちを幸せにする為の教えだから、少欲知足も私たちを幸せにする為にぜひ実践した方がいいから教えられる。

では、少欲知足とは何か?

それは、私たちは何かを自分のものにして、思い通りにできたら幸せだと思っている。でも、実際は、どんなに自分のものだからと言って、それを粗末に扱ったならば、自分の心が荒んで苦しくなる。

少欲とは、あれも欲しい、これも欲しいと思って、自分のものにしようとする心にブレーキをかけたもの。

そんなに何かを所有しても、それをちゃんと使ってあげず、ただ自分のものにしたいと思って、我をつけているだけでは、自分の心が苦しくなると教えられたものです。

だから、貧乏な暮らしをした方がいいという訳ではない。そうじゃなくて、自分のものだと思って手に入れたものは、それが自分のところに来て良かったと思ってもらえるように大事にいつも使ってあげる。

欲の深い人は、買って自分のものにするだけで、その物を使わず放置している。それが良くない。

買ったものはいつも使ってあげるし、使わなくなったものは捨てる。
そうやって、使わなくなっても執着して持ち続けることをやめる。

水はいつも流れているから、その水は清らかであって、それを自分のものにしようと思って、いつまでも自分の手元に溜めておいたら、水は腐る。

さらさらとさらさらと物事に執着して自分のものにしようとせず、必要な分だけ、大事に使い、それ以上のものを得たら、気持ち良く、他人に施してゆく。これが少欲知足なのです。

懺悔

懺悔とは何か?

懺悔とは、もう同じ過ちはしないと心で固く誓うこと。でも、どんなに心でこんなことをしないと固く誓っても、それで懺悔になる訳ではない。

懺悔には、取り返しのつかないことをしてしまったという自覚が大事。
私たちは失敗しても、自分の中でこれはこういうことだから悪くない。あれはああいうことだから悪くないと心の中で言い訳をして自分を正当化している。

でも、どんなに言い訳して自分を正当化したとしても、その失敗によって失った信用は元に戻る訳ではない。
例えば、自分がどんなに怒らないように気をつけていたとしても、怒って相手を傷つけてしまったならば、相手の心には傷つけられたという感情が残る。それはどんなに怒ったのは自分は悪くないと言い訳をしたところで、だから相手は傷つけられたことをなかったことにしようとは思わない。

つまり、相手を傷つけたことはなかったことにはできないことであり、傷つけたことを受け止めて、これからその人と会わなければならない。この事実を受け止めること。もうなかったことにはならない。自分は相手を傷つけてしまったのだということをなかったことにはできないと認めること。そして、これから失った信用をもう一度積み上げてゆくこと。それが懺悔。

私たちは失ってしまっているのに、失ったという事実を認められず、自分は悪くなかったとする為に相手を悪者にする。

だから、どんなに相手を傷つけたとしても、自分が悪かったとは思えない。

その人にとって、相手を傷つけたということよりも、どちらが悪かったということが問題になって、自分も悪かったけど、相手はもっと悪いと思っている。

でも、真実から言ったならば、どちらが悪いなんてどうでもいい。大事なことは、自分の種まきによって相手を傷つけてしまったということであり、それはもうなかったことにはできないということである。

それはもう取り返しのつかないことなんだと思って、なかったことにはできないのだと受け止めること。

そこから、もう二度と同じ過ちはしないという決意が生まれる。これが仏教の懺悔なのです。

“浄土真宗講義530タネを蒔かなくても結果が欲しいと思うと不安になる(上田祥広30年10月14日)” を YouTube で見る

思い通りにならないことを想像して不安になる人は、それはもともと心に不安を抱えていて、それが縁に触れて不安が見えただけ。この不安は種まきをしないで結果だけ求めていることから来る不安。
不安な人と不安でない人は何が違うか。思い通りにならない時に不安にならず種まきに徹するにはどうしたらいいか。このことについて話しました。

仏教でいう愚痴とは何か

仏教でいう愚痴とは何か?

愚痴とは因果の道理が分からない心。結果には必ず原因がある。
自分はなぜこんな目に遭わなければならないのか。
どうしたら幸せになれるか。自分にやってくる運命には原因があり、運命を生み出す法則がある。
その法則が分からず、自分の信じる正義に従って生きることが愚痴。それは真理に従ったものではないので、どんなに頑張っても、苦しみの沼の中をもがくだけで、そこから抜け出すことはできない。

だから、幸せになりたければ、闇雲に頑張ることではなく、自分にやってきた結果を見つめ、どうしてこんな結果になったか考える。そして、過去のどんな種まきが今の結果を生み出しているか、その法則を見つけ出すことが何よりも大切なことなのです。

多くの場合、私たちは過去から幾たびも同じような結果を受け続けている。それは何度も何度も失敗しているのに、なぜそんな失敗をしたのか、その原因を反省することなく、同じ種まきを続けているから。
だから、同じ種まきをしているから同じ結果しかやって来ない。

結果を変えたければ、まず現実を見つめ、それがどんな種まきによって生み出された考える。そして、幸せになる為に種まきを変えてゆくことが必要なのです。
運命は自分の種まきによって変えてゆくことができる。その為には、種まきと結果との間の法則を見つけること。それが分かったならば、後は種を蒔いてゆくだけ。それによって運命を自分の望むように変えてゆくことができる。

漠然と生きていても幸せになれる訳ではない。運命を変えるのは、自分なんだと思って、具体的に自分の種まきを変えてゆくことが大切なことなのである。

“仏教入門053人生には目的がある(28年08月04日)” を YouTube で見る

人間に生まれて何をなすべきか。人生には目的がある。それを教えられたのが仏教。人生の目的は、仏教の目的であり、仏教を聞けば人生の目的も分かる。

仏教には人生の目的についてどう教えられているか?

良かったら聞いて下さい。