楽して稼いだお金と苦労して稼いだお金

世の中では、苦労してお金を稼ぐことよりも、楽してお金を稼いだ方が得だという考え方があります。

つまり、苦労して稼いだ十万円も、楽して稼いだ十万円も同じ価値の十万円だと思っているので、同じ稼ぐなら楽した方が得だと思うからです。

でも、苦労して稼いだお金と楽して稼いだお金は同じ金額なら、同じ価値だと言えるのでしょうか?

確かに十万円という金額は同じです。しかし、そのお金をどう見るかということについて言えば、楽して稼いだお金の方が楽した分だけ、お金の価値が軽くなってしまうのではないでしょうか。

お金の価値は人によって違います。苦労して稼いだ分だけお金の価値は重くなり、楽したならば、お金の価値は軽くなります。

だから、楽して稼いだお金で買ったものも、お金が軽くなる分だけ、買ったものも軽くなってしまうのです。

よく家族に対してお金をかけてきたという人がいますが、その人にとってお金の価値が軽くなってしまったら、どれだけお金をかけたとしても、その人にとって家族の価値も軽くなり、代わりのきくものになってしまいます。

お金は大事なものです。でも、大事だと思う為には、それだけの苦労をしなければ、大事だと思えなくなってしまうのです。

大事なものが軽くなってしまうことほど、悲惨なことはありません。その人にとって何をしても幸せを感じることはできなくなるからです。

大事なものは苦労した方がいい。その分だけ大事にしなければという思いになるからです。

昔の方が幸せだったのではないか

使い捨ての世の中にあって、一つのものを大事に使い、長く使ってゆく社会に憧れます。

物が余りない時代は、一つの物でも高価であったので、みんな一つの物を大事に使い、親から子へと引き継いでいました。

それが時代は流れ、物が豊富になり、何でも簡単に手に入るようになると、物を大事にする文化は廃れ、本当に使うかどうか考えることなく欲しいだけで買うようになりました。

でも、欲しいものは何でも手に入る時代になったけど、その反面、大事なものも失ってしまったように感じます。

それが一つの物を大事に使うことです。

仏法では、どんなにお金があって、欲しいものは何でも買えてもそれで幸せになれる訳では無いと教えられます。

それは幸せとは、手に入れたものをどう扱うかで決まるからです。

だから、物が少ない時の方が、一つの物を大切に使っていたことを考えると、今よりも昔の方が心は幸せだったんじゃないかなと思うのです。

どんなにお金があっても、今あるものを大事にすることができたらいいなと思うのですが、なかなか難しいものですね。

心豊かに生きてゆきたいものです。

苦しみは執着から生み出される

人生思い通りになって欲しいと思えば思うほど、思い通りにならない現実にぶつかった時に苦しむ。

人生とは思い通りにならないことばかりだから、人生とは苦しみの連続だとも言ってもいいです。

しかも、今は思い通りになっていても、未来思い通りにならないことが起きるのではないかと思うだけで苦しむ。

そういう意味で、苦しみとは思い通りにならないことが起きている時だけ苦しむのではありません。

では、なぜ苦しむのでしょうか?

それは思い通りにならない現実とぶつかった時に、その現実を素直に受け入れることができず、理想の自分に執着する所から起きます。

つまり、苦しみとは執着によって起きる。

執着とは、我に対して執着する所から生まれる。

だから、我にとらわれることがなくなれば、苦しみもなくなるのです。

しかし、私たちは我が自分だと思って生きてきたので、我以外の自分を知らない。その為、現実によって我が否定されると、現実を受け入れることができず、我に執着して苦しむことになるのです。

我は本当の自分では無い。でも、我が自分だと思って生きてきた人には、我が自分だとしか思えないし、我を失ったら自分は何者かも分からなくなって苦しむ。

だから、我が自分だとしか思えないのです。

しかし、我は本当の自分では無い。やがて否定される時が必ず来る。

そういう意味で人生とは爆弾を抱えながら生きているようなものだと思いました。

後継者が欲しい

今私は仏法を伝えていますが、人間には寿命があり、いつまでも生きてゆける訳では無いと思うと、誰かに自分のあとを継いで欲しいと思わずにおれません。

しかし、仏法というのは、智慧がなければ、どんなに気持ちがあっても、伝えることはできません。ましてや仏法を伝えて生きてゆくことはどれだけ大変なことかと思うと、私の後を継いで欲しいと思う反面、それはなかなかできることではないなあと感じるのです。

それでも、仏法ほどこの世で大切な教えはないと思うと、この教えを自分が死んで、それで終わってしまったら、残念でなりません。

世の中の人たちは幸せになりたいと思いながら、どうしたら幸せになれるかも知らず、自分のやり方で幸せになれると思って間違った道を進んでいます。

それで人生の多くの時間を費やし、死んでゆくとなって、初めて自分の人生は何だったのだろうかと後悔の涙を流すのです。

真実は、真実を知る人から聞かなければ、自分でどんなに考えても分かるものではありません。

だから、せめてこの世に一人だけでも真実を伝える人が残り続けてゆく。そんなことが実現したらと思わずにおれません。

この一人が残り続けてゆくことがどれだけ大変なことか、仏法を伝えて行きながら、ヒシヒシと感じます。

でも、私にできることは仏法を伝えてゆくことしかありません。

残された時間を少しでも人に仏法を伝えてゆくことにかけてゆく。

その積み重ねしか、私の願いを叶える方法はありません。

真実は真実を聞いた人からしか伝えることはできない。

だからこそ、真実を伝えることに全力を注いでゆく。そして、自分のあとを継いでくれる人が現れることを願いながら生きてゆくしかないなあと思いました。

どうしたら心が問題になるのだろうか

仏教とは心を問題にする教え。だから、形だけ善に励んでいる人は心を見ていないから、どんなに善に励んだとしても、信仰が進むことはありません。

心を見なければ、正しい所に立つことができる。自分はこんなにも善に励んでいると思っておれます。

そして、善人という所に立って相手の悪を批判することができる。

でも、善人という所に立っている限り、本当のところは分からない。

自分が本当はどんなことを思っているのかということに気づくことなく、自分は善人というところに立って、どこどこまでも生きてゆくのです。

せっかく仏法を聞きながら、心を問題にしなければ勿体ない。何を聞いているのかということになってしまうのです。

でも、この心を問題にすることは難しい。それは都合が悪いからです。

そして、都合の悪い自分から逃げたまま時だけが過ぎてしまうのです。

どうしたら心が問題になるか、教えを伝えてゆく上で私の課題だなと思わずにおれません。

独生独死

仏教の言葉に独生独死という言葉があります。これは人生というのは結局の所、生まれてから死ぬまで、孤独な旅をしているということです。

これは経典の中では、怒りの所に教えられているお言葉です。つまり、怒りを起こす人の人生は孤独で寂しい旅をしているということです。

私たちはつまらないことで腹を立てます。後から考えるとこんなことでどうして腹を立てたのかと思うようなことでも、怒りを起こします。

そして、怒った後は、悪いのは相手だと相手のせいにして、自分から謝ることはしません。

そうやって思い通りにならないと怒りを起こし、他人のせいにするから、心から人を信じることができず、いつも心は一人なのです。

また、怒りを起こさなくても、馬鹿にされたくないから、失敗しても下に見られたくないから、素直に頭を下げることができません。

頭を下げることができないから、やっぱり人を信じることができないのです。

人を信じることができないから、どんなに人に囲まれても心は孤独になり、寂しい心を抱えながら生きてゆかなければならなくなるのです。

真理が分からないから苦しみ続けている

幸せは分かち合うことで、心が満たされてゆく。

自分だけ得ようとして貪ると、どんなに思い通りの結果が得られたとしても、心は満たされず渇いてゆく。

そして、他人の幸せを妬み、他人の幸せを奪って、自分が幸せを味わおうする。

しかし、そうやって、どんなに思い通りの結果を得たとしても、心は満たされず、ますます渇く。

だから、思い通りの結果を得ながら、幸せは僅かしかなく、苦しみ続けなければならない。

よく他人のものを奪って贅沢をする犯罪がニュースになるが、世間では、その人のことを散々贅沢をしていい思いをしたのだろうと思っていますが、現実は贅沢をしても心は満たされず、苦しみ続けていたのです。

真理が分かれば、自分だけ幸せになろうという思いは苦しみしか生み出さないから、やろうとは思わないが、真理が分からないから、苦しみしかないと分からずに求めてしまう。

みんな真理を知らないから苦しみ続けているのですね。

雑毒の善は善なのか

仏教の言葉に雑毒の善という言葉があります。雑毒とは、煩悩の混じった善のことであり、この煩悩とは、勝他(馬鹿にされたくない、上に立ちたい)、名聞(価値のある存在として認められたい)利養(立場が上になるほど楽ができる)のことです。

昔、ある会で雑毒の善でも善は善だから、やれば善果が来るし、救いに近づくからやった方がいいと教えられました。

でも、最近になって、雑毒の善は果たして善なのだろうかという思いになりました。

まず、七仏通戒偈でも、諸の悪作すこと莫かれ、諸の善を行い奉るべし、自ずから其の意を浄らかにすべし、是れ諸仏の教えなりと教えられ、悪をやめて善をすることで、煩悩から離れ、心を清浄にしてゆくのが仏教であると教えられています。

だから、煩悩から離れたいと思って善に励むのが仏教であるのに、雑毒の善とは、煩悩を満たす為に善をやっている。

確かに形は善をやっているかも知れないが、その心の向きは仏教で教えられる善とは、真逆。果たしてこれが善と言えるのだろうか。

それとも形では善をしているので、心が間違っていても善と言えるのか。

そんな善を虚仮の善と言われ、こんな善では、たとえ髪に付いた火をもみ消すように善に励んだとしても浄土に往生することはできないと教えられています。

だから、雑毒の善は悪なのだと思います。

それを善だと思って、雑毒の善でも励めば、宿善になるのだと思ってやっている会の人たちを思うと、極楽に向かって進むどころか、地獄に向かって進んでいると思うと、何の為に仏法を聞いているのだろうと思います。

悪を善だと教える団体はもはや仏教ではない外道の団体なんだと思わずにおれません。

何とか分かってもらえたらと念ぜずにはおれません。

人生の多くの時間を無駄に過ごしたとしても

私たちは心でどんなことを念じているか、それによって自分の世界を生み出してゆきます。

だから、幸せな世界を念じている人は自分のまわりの環境が幸せな環境になってゆきますし、苦しみの世界を念じている人は、何をやっても苦しみの世界となってゆきます。

だから、自分自身がどんなことを念じているか分かれば、自分がこれからどんな運命を受けてゆくかも分かります。

この念を苦しみを生み出す念から幸せを生み出す念に変えてゆく教えが仏法であり、仏法の教えを知らなければ、どんなに頑張っても、自分の念によって生み出した世界から離れることはできません。

多くの人は幸せになりたいと思って生きています。それは今が苦しいからであり、頑張ればこの苦しみから離れ、幸せになれると思っています。

でも、その人たちの根本的な間違いは、自分の考えは正しいという思いであり、みんな自分は正しいと思っているからこそ、仏法の教えを求めることなく、目の前にあっても聞くこともないのです。

自分の考えの間違いに気づくには、自分が正しいと思う方向に進み、失敗するしかありません。

たとえ人生の多くの時間を無駄に過ごしたとしても、自分の間違いに気づくことができた人は、幸せな人じゃないかと思いました。

まず相手の言葉を受け止める

相手が自分に対して気持ちを伝えてくれたならば、それがどんなに自分のことを非難する内容であっても、真摯に受け止めてあげることが大切だと思います。

正直な気持ちは思っていても、否定されるのが怖くてなかなか言えないもの。それを勇気を出して言ってくれたのだから、その言葉はちゃんと受け止めてあげなければ、せっかく言ってくれたのに、言わなければ良かったと心を閉ざしてしまう。

相手は心を開いてくれるからこそ、こちらの言葉も受け止めてくれる。

心を閉ざしてしまったら、どんなに相手のことを思って話しても、相手には届きません。

自分の話を聞いてもらいたいと思ったならば、まず相手の心からの気持ちを大切に受け止める。

自分が受け止めなければ、相手も聞く耳を持ってはくれないものなのですね。